校区の案内
耳原小校区史跡施設案内

白井河原合戦跡
耳原3丁目
 この茨木川をはさんで付近一帯を「白井河原」といい、茨木・伊丹両氏と池田氏とが歴史上の合戦をしたところです。
 茨木方を支持する和田伊賀守惟政と池田方の荒木摂津守村重・中川兵衛ら池田二十一人衆との対立となり、元亀二年(1571)八月、ついに激突しました。
 この時、和田勢五百余騎が相対しましたが、和田軍はまだ戦列が整いませんでした。そこで部下の一人、高利平大夫(郡兵大夫)が時間かせぎをしようとしましたが、その計略がみやぶられたため主君惟政に「多勢に無勢・・・」などと進言しました。しかし、惟政これを聞き入れず、後続軍の到着を待たずに二百余騎の少数で激突しましたが、この時惟政は、池田方の武将・中川瀬兵衛に討ちとられました。
 主君を失った和田・茨木の郎党たちは、「主を討たせてどうして生き残れようか」と切って出て討ち死にしたので、「白井河原は名のみにして、唐紅いの流れとなる」ほど染まったそうです。
茨木市教育委員会 解説板より

南より撮影 左手の川が茨木川
   

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耳原古墳
耳原3丁目18-8(阪急バス車作線で耳原下車徒歩5分)
 平地に高く盛土された古墳で、封土(ふうど)の中央に立派な横穴式石室があります。玄室の長さは約6.97m・幅2.4m・高さ約3m・羨道(せんどう)は長さ約6.97m・幅・約1.68m、側室は花崗岩の自然石を用いて三段に積み、その上に天井石をのせています。
 石室の特色は前記の数字てせもわかるように非常に細長い石室内に石棺が二個安置されていますが、丁度最初から予定されているような様子です。奥にある石棺は家形組合せ式石棺ですが、今は側石が取りのぞかれて蓋石が底石の上に置かれています。長さは約2.2m・幅約1.3mもある堂々たる大石棺です。羨道近くにある石棺はいえ形刳抜(くりぬき)式石棺です。蓋と身の二石からなっていますが、身の長さは約2.09m・最大幅約0.9m・高さ約0.7mの立派なものです。同じ一つの古墳内に形式の違った二個の石棺がどうしてあるのか大きさなどから当然奥の棺がこの古墳の主体であり、入口に近いほうが従になるであろうと考えられますが、二人の関係は不明です。
茨木市教育委員会 解説板より

耳原古墳
石室の中に入ることができます。
見学する場合は、会社の敷地内にあるので、入口の守衛室に申し出て許可をとってください。

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鼻摺古墳(はなずりこふん)[耳原方形墳]
耳原三丁目
 この古墳は古くから地域の人々に深い関心がもたれ昭和三5年5月から約40日発掘調査が行われた。
 その結果、東西南北の四方に濠をもつ方形の古墳で、墳丘の一辺の長さは、約33m、高さは約5.5m、濠の幅は南側で12m、東北西側は約7mである。
 以前に大規模な盗掘があったらしく調査時には、石室や副葬品はなく、わずかに須恵器、瓦器片が出土したのみであった。
 この地は古く毛受野(もずの)と呼ばれ、仁徳、履中・反正の三天皇陵であると伝えられている。それによると当古墳は履中天皇陵とも伝えられるが又、仁徳天皇陵或は反正天皇陵と記すものがあって明確ではない。出土した須恵器からみると、古墳の築造年代は六世紀から七世紀にかけてのものと考えられる。                   
茨木市教育委員会 解説板より

鼻摺古墳(耳原方形墳)
南西より撮影

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糠塚(ぬかづか)
耳原三丁目
糠塚は耳原公園の北側にあり、現在は平地になっていますが、昔の資料によると、明智日向守がこの地を軍用にしたといいます。耳原村誌によると、この糠塚付近において、白井河原の合戦時に、中川清秀が和田惟政を討ち取った場所だと言われています。
耳原小創立10周年記念誌より

糠塚
耳原公園で撮影

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耳原塁(耳原城)
耳原一丁目
1960年頃まで、耳原三丁目の法華寺裏の竹林の中に、深い所で2m余の堀で三方に囲まれた砦跡があったといいます。これが中市屋敷、耳原塁と伝えられたところです。その後、帝人研究所の敷地となり整地されその跡はなくなってしまったといいます。耳原村誌(明治12年)には、「砦城古趾」として次のような記述があります。

  「本村ノ中央竹林ノ内ニアリ東西三十二間三尺 南北三十間、此砦城ヲ耳原ノ塁と称ス天正年中 明智日向守秀光ノ築所ニシテ方今三方ニ堀ノ跡存ス」
耳原小創立10周年記念誌より

耳原塁の一角にある法華寺
法華寺山門

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西国街道
耳原三丁目
 京都と西国とを結ぶ西国街道は、平安時代以来往来が盛んとなり、淀川をはじめとする水上交通とともに重要な交通路でした。三好長慶(ながよし)や豊臣秀吉らにも利用されるなど、戦国時代にも重要な軍事道路としての役割も果たしました。政治・経済・文化の各方面で三島地方に及ぼした影響は大きかったといいます。
 西国街道は京都の東寺口から伏見・山崎を経て、伊丹平野を斜めに横切り、西宮で中国街道(山陽道)と結ぶ64kmの道で、江戸時代には山崎街道ともいわれました。京街道と中国街道を結ぶ脇街道として、参勤交代による江戸往還のために利用する西国大名が年とともに増加し、あたかも参勤交代路の観がありました。
大阪府の歴史散歩(山川出版社)より

西国街道
安養寺付近で撮影

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耳原遺跡
耳原・南耳原一帯
耳原一丁目から南耳原一帯に広がる縄文晩期から鎌倉時代にいたる遺跡です。北に丹波山地があり、南に低地の平野が広がっている舌状の洪積台地(標高20~25m)にあり、自然環境もよく、水の確保、動植物の採取にも適した場所だったと思われます。1960年名神高速道路がこの地を縦断するために調査をされたのが初めで、1971年の調査では、縄文時代晩期の甕棺15基、弥生時代の貯蔵穴と推定される10数個体の土器を納めた土杭、弥生時代前期・中期にかけての土擴(どこう)墓と思われる土杭群、平安時代のものを含む多数のピット群などの遺構が見つかりました。出土遺物には、縄文時代から平安時代にかけての土器、石鏃(ぞく)、石剣、石包丁ほか各種の石器があります。
耳原小創立10周年記念誌より

耳原遺跡
本校第2理科室で復元作業中のものを撮影


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耳原公園
耳原3丁目(阪急バス「中河原」下車徒歩10分)
耳原公園は耳原大池とその外周部約45000㎡の敷地に日本庭園をイメージして整備を行いました。特徴は、園内には、滝が二ヵ所やあずまや、芝生広場、木製遊具、散策デッキ、多目的広場などを設け、高年齢から子どもまで幅広く楽しむことができます。春先は、中央付近に植えられた桜や梅が、周囲の緑に彩りをそえています。また、この付近は、もともと自然環境に恵まれており、カルガモ、コサギなどの野鳥や耳原おおいけにはフナ、コイなどが生息しています。
茨木市広報より

耳原公園
公園北側より撮影

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