銅鐸について  

銅鐸はなんらの伝承も残されずに突然姿を消した謎の遺物です。天智天皇7年(668)正月17日、近江国(滋賀県)志賀郡で崇福寺という寺を建てるために地ならしの工事が進められていた時、高さ五尺五寸もある銅鐸が一個掘り出されました。これは平安時代末期に僧皇円が著した『扶桑略記』(ふそうりゃっき)に記されていて、記録に残っている銅鐸発掘の最初の記事ですが、この当時すでに銅鐸は見なれない奇異なものになっていたのです。また、和銅6年(713)に大和国(奈良県)宇陀郡で銅鐸が発見されたことが『続日本紀』に記されていますが、その場合もこの高さ三尺、口径一尺の銅鐸は見なれないものだと書かれているのです。

この不思議な銅鐸は、崇福寺(そうふくじ)での発掘よりもさらに何百年も昔の弥生時代に造られたものであることが今では知られており、これまでに近畿地方を中心に主として中国・四国・中部・東海地方から400個ほど発見されています。銅鐸の形はつり鐘を少しおしつぶしたような扁円筒形で、中空の身の上の方に半環状の鈕、すなわち吊り手が付いており、鈕から身の左右両側に鰭(ひれ)と呼ぶ扁平な装飾部分が下方へのびています。銅鐸の起源は、馬鈴(ばれい)として使用された朝鮮式小銅鐸が日本に入って独自の銅鐸に変化したと考えられます。
これが何に使用されたのか不明ですが、初期の小型のものは鈕に紐を通して吊り下げ、身(み)の内側に棒状の舌を吊るして揺り鳴らしたと思われます。銅鐸はその身の文様と鈕の形状から分類されています。文様には横帯文(おうたいもん)・流水文(りゅうすいもん)・袈裟襷文(けさだすきもん)があります。また、鈕の形状を基準にして銅鐸の年代を四段階に大別し、吊り下げるための機能を果たすのにふさわしい実質的な鈕から装飾の過剰な鈕まで、その変遷を追うことができます。この段階の順に銅鐸は次第に大型化し、古いものは高さが20cm内外であるのに新しいものは60cm以上で、なかには134cmに及ぶものもあります。また、大型化とともに装飾性も次第に強くなって「聞く銅鐸」から「見る銅鐸」へと変化し、農業祭祀器となったものと考えられています。

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