東奈良遺跡
東奈良遺跡は、北は奈良町、南は沢良宜西、東は元茨木川、西は大正川まで南北約1.4q、東西約1qの規模を持つ弥生時代前期から鎌倉時代に及ぶ大きな集落遺跡です。
東奈良遺跡の発掘状況 (昭和51年度
           

この追跡の発見は昭和46年(1971)4月、東奈良2丁目の小川水路改修工事中に多量の土器・石器・銅鏃などが採集されたことに始まります。その頃、この付近に大規模な高層住宅建設計画があることから、大阪府と茨木市によって東奈良遺跡調査会が結成され、同年7月から本格的な発掘調査が開始されました。それ以来、数年にわたる調査の間に重要な発見があいつぎ、この遺跡の重要性が改めて認識されました。遺跡は弥生時代から古墳時代前期を主とし、土壙墓(どこうぼ)・木棺墓・壷棺墓・かめ棺墓などのほか方形周溝墓・竪穴式住居跡・掘立柱建物跡・井戸・大溝・貯蔵穴などの遺構があり、遣物には各種の土器・石器および農具などの木製品がみられています。さらに、昭和48年(1973)11月から翌年9月にかけて銅鐸・銅戈(どうか)・勾玉(まがたま)の鋳型をはじめ多数の鞴口(ふいごぐち)など鋳造に関連する遺物が出土しました。 東奈良遺跡でこれまでに出土した銅鐸の鋳型は完形に近いものや破片を含めて35点で、外縁付鈕式(がいえんつきちゅうしき)と扁平鈕式(へんぺいちゅうしき)の2形式がみられ、また流水文5種と袈裟襷文1種に分けられます。これらの鋳型から鋳造された銅鐸の個数は10個体以上と考えられます。


校内にある銅鐸の模型

鋳型は凝灰質砂岩で作られた石型で、中でも角の一端を欠くだけでほとんど完形に近い鋳型は全国で初めて発見されたものです。これを第1号流水文銅鐸鋳型と呼びます。

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