T 茨木市の概況
  1.沿 革
 古をたどると「いばらき」には、縄文晩期や弥生時代の遺跡がいくつか発見されており、すでにこの頃から、この地に根ざした生活があったことがうかがえる。さらに、古墳時代の初期から末期までの、いろいろな形態の古墳がそろっており、市内に散在している。なかでも、紫金山古墳と将軍山古墳は全国的にも有名である。
 平安時代に入ると、市の北部を東西にはしる西国街道の往来が盛んとなり、京都と西国の国々とを結ぶ大切な交通路となった。その役割は、室町時代・江戸時代になるとさらに大きくなり、参勤交代などにも利用された。「椿の本陣」は、これを物語る貴重な史跡である。
 室町時代の茨木氏ら豪族の活躍に代わって、天正5年(1577年)に中川清秀(1532年〜1583年)が茨木城主となった。梅林寺には、本能寺の変(天正10年6月・1582年)の時に秀吉が清秀に宛てた策略の書状が収蔵されている。中川氏によって治められた茨木の城下町は、後に、一国一城令によって廃城となるまで片桐且元(1556年〜1615年)に引き継がれた。茨木城は、茨木神社と茨木小学校にその面影が、わずかに残されているにすぎなかったが、平成4年度、茨木小学校の正門北に櫓門が復元された。
 明治4年(1871年)7月、廃藩置県によって「いばらき」は大阪府の直轄となり、明治31年(1898年)の郡制実施で三島郡が置かれると、茨木村も町制を施行し、その中心地となった。 昭和23年(1948年)1月1日に茨木町・三島村・春日村・玉櫛村の1町3村が合併し市制を施行、以後8か村を合併して昭和32年(1957年)には、ほぼ現在の市域となった。(当時の人口約3万4,000人、7,700世帯)
 既設の東海道本線(明治9年)、阪急電鉄(昭和3年)の2鉄道に加え、昭和30年代の後半から40年代にかけて、名神高速道路、大阪中央環状線、近畿自動車道など幹線となる道路交通網が整備され、本市は大阪圏の交通・産業の要衝として重要な位置を占めるようになった。これにより、田園都市から商工業都市・衛星都市へと大きく変わった。平成9年8月には、大阪空港を起点とする大阪モノレール(大阪空港〜門真市)、平成10年10月に彩都線(万博記念公園〜阪大病院前)が開通し、地域の発展に大きく寄与するものと期待されている。
 このような産業基盤の整備に伴う商工業の発達の一方で、大正2年(1913年)には日本で最初の屋外プールが茨木中学(現茨木高校)に作られ、たくさんのオリンピック選手を輩出するとともに、昭和43年(1968年)には、本市で幼・少年期を過ごした川端康成氏がわが国最初のノーベル文学賞を受賞するなど、文化・スポーツの町としても伝統を有する名高い町として知られている。
 平成10年度1月に市制50周年をむかえ、現在では、人口も26万人を超えて、府下9番目の人口を有する近代的な都市として発展をとげている。


  2.地 勢
 本市は、淀川の北、大阪府の北部にあり、丹波高原の一部をなす老の坂山地の麓に、南北に長く位置し、東西8.65km、南北に17.30km、面積76.52ku を有する広汎な地域を占めている。
 北は京都府亀岡市に、東は高槻市に、南は摂津市に、西は吹田市・箕面市・豊能郡豊能町に隣接している。その地形は南北に長く、東西に短い長方形をなし、およそ北半分は老の坂山地であって、南半分は大阪平野の一部をなす三島平野であり、山地のほぼ中央に、竜王山(510m)がそびえ、最も高い標高は豊能町との境にある石堂ヶ丘(680.5m)である。市内の最低標高は5mで市街地の平均は10mである。
 河川は北部に源を発し、安威川・佐保川・勝尾寺川の三河川が南に向かって流れている。市の中央部を流れる佐保川は、泉原の北部に源を発し清溪の渓谷を流れ、福井を経て中河原において、箕面方面より流れてくる勝尾寺川と合流し茨木川となる。茨木川は西河原において竜王山の北を源とする安威川に合流し、安威川は市内南東部を経て南端から市外に流れ出る。



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