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COUNTER272191

夢香紫野 花多令虚僧 という匿名でいただいたお手紙の一部を紹介します。

拝啓、厳寒の候、貴校ますますご清栄のこととお慶び申し上げます。

(中略)

実は、私、六十年前に貴校を卒業(明治四十五年入学・大正七年三月卒業)させて頂きました。
かつての鼻たれ小僧でございますが、今はただ往時を懐かしむままにこのような取り止めのない一文を差し上げましたまででございまして、 ほかに何の意図もございませんので、この儀よろしくご了承の程をお願い申し上げます。

(中略)

先日、久しぶりに帰郷(太田村)いたしました折、学校のそばを素通りいたしましたが、世の移り変わりとはいえ、 周囲の風景がすっかり変わっていて、昔の面影はどこにもなく、「往時の姿、今やいづこ…」と感慨無量でございました。
昔の三島村も、今は茨木市となりまして、学区も変わり、太田の山手にも学校が出来ていますが、当時は暑い日も寒い日も、 風雨にめげず年がら年中ひざ小僧までの短い着物(一、二年のときは黒い腰前掛けをしました)に、しり切れ草履で通い続けた 『心のふるさと』、懐かしい我が母校。「今は何処よ」、それは私の脳裏にあるばかりでした。

広々とした野中の田んぼの真ん中にぽつねんと建っていた校舎は、L字型に校庭を囲み、南側に四教室、西北部に二教室、 西側中央部に教員室を挟んで唱歌室と裁縫室がありました。
南側の校門を入った処は玄関口で、来賓の応接室があって、理科や地理の見本や教材が陳列されていました。

(後略)

  昭和五十二年二月七日
往時の鼻たれ小僧  

    三島小学校 校長先生殿




同封されていた当時の様子を描いた絵です。
所々に、詳しい説明も書かれています。(↓下の青字は手紙文からの引用です。)

画像をクリックすると、大きな画像でご覧になれます。
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三島村大正初期の三島村の記憶図
(三島校は田圃の中にあった)

鮎川の子は富田の学校へ。田中の子は茨木の学校へ通っていました。
高等小学校は養精校に行きました。
校舎・校庭校庭の真ん中に木があったのですね。
「このあたり角力場」「縄とび遊び」「鬼取り遊びの檻」といった記述もあり、遊びの様子も想像できます。
朝礼での並び方や校舎の見取り図も描かれています。
一学年一クラスだったようです。
校門上の図の右下の部分です。

「三島尋常小学校」の校門の様子が詳しく書き込まれています。
「通学路」の他に「近道」も書かれてるのが面白いですね。

ここに書き込まれている(追憶)は、下記注釈をご覧下さい。
学校全体学校の全体図

三島小学校は田圃の中にありました。
夏休みが終わって9月1日に登校すると、朝礼の時、校長先生から明治が終わって大正になったと聞かされたのは私の1年生の時でした。


教室1年生の時の教室

男児と女児が仲良く並んでいました。小さい子が前で、大きい子は後ろでした。
机を並べた女の子の名前はいまでも覚えています。彼女、健在であろうかと懐かしい限りです。

厳寒には、火鉢が入った。ただし一年生だけ。


注釈)

(追憶)


山本校長は八字ヒゲを生やした老人のこわい先生でした。
私の一年生の時も富田から通っていた黒田先生の受持でやさしい先生でした。大好きでした。
正月や紀元節の式のときは黒の三つ紋のついた羽織に小倉の袴をはいて登校しました。(小紳士姿です)
6年の時は梶井先生で、卒業式の時、卒業生代表で答辞を読みました。
私は太田村の子供でがき大将でしたが成績は女の子に負けていました。



(修身の時間)

水鏡に写る欲張り犬や「おおかみや…、おおかみや…」といってウソをついた子供の話につぶらな目を輝かして聞き入った 幼い時の光景がつい昨日の様に目に浮かんで来ます。